「心を映す湖にて」

 

 ――大切な人達と過ごす尊いひととき。また一つ、心の水鏡に刻まれてゆく。

 吹き抜ける初夏の清涼な風が、鏡のように透き通った蒼い湖畔を波立たせていた。

 熊野、白石湖。熊野灘と船津川の境に位置する広大な汽水湖である。

 敦盛がここに来るのは、熊野で暮らしていた幼い頃以来だ。

 命の全てを包み込むかのように、穏やかにたゆたう湖。水鏡が太陽の光を映し、
眩く煌めく光景が好きだった。

 「綺麗な景色ですね。連れて来てくれて、ありがとう」

 望美が暑さ避けの市女笠を傍に置き、肩にしなだれかかってきた。

 「ああ。私は望美やスズとここに来て、幼かった頃の私自身に伝えたかったんだ。
泣いていたとしてももう、独りではないのだと」

 ここにいると、懐かしい想い出が次々と心の水鏡に映し出される。それは、怨霊と
して蘇って失くしてしまったもの。

 けれど愛する妻が側にいてくれるから、失ったものは温かな痛みを伴って、自分の
胸へと還り付く。

 「大丈夫。私が敦盛さんの涙を拭えるように、一緒にいますから」

 こめかみにそっと触れてきた柔らかな唇に、自分の唇を重ねて応えた。

 ――望美の温かい手に幾度も救われたように。還り付いた分以上の幸福な時を、
あなたと刻んでゆきたい。

 胸の内で優しい温もりが、波紋のように広がってゆく。心の水鏡に映る自分は、確かに
微笑んでいた。

 

 どれ程の間、触れ合っていただろうか。望美がこちらを見上げ、翠玉の瞳を無垢に
細めて言った。

 「これくらい広かったら、久しぶりにあれが出来ますね」

 “あれ”という言葉――望美の市女笠の隣に置かれた、現代で言う手提げ型をした
籠に入っていた虎猫、スズが耳をひくつかせて反応した。

 望美がその籠から取り出したのは、若草色をしたねこじゃらし。

 「スズ、取っておいで」

 おもむろに、望美が勢いよくねこじゃらしを彼方へと投げる。それと同時、スズは
獲物を追う虎の如き眼光を宿し、嬉々として駆け出していた。

 ――平家にいた頃から頻繁に色々なものを獲って来ては、私の褥に置いて
いたが……。お前はやはり、我ら一門の誇り高い血を引いているのだな。

 その勇ましき背を見送って。敦盛は望美と共に、瑞々しい草花の褥を思わせる、
湖のほとりに腰を下ろした。

 ふと自分の手に重なる、微熱を帯びた手。望美が傍らに群生していた薄紅色の
つつじを一輪差し出していた。

 「あげます。誕生日おめでとう」

 「だが花は、美しいあなたにこそ相応しい」

 そのつつじを手に取り、吐息が触れる距離まで顔を近付けた。

 つややかな髪の右耳の上辺りに、かんざしを挿す要領で差し入れる。つつじを
掠めるかのようにして、耳に口付けた。

 「でも本命の贈り物は、こっちですよ」

 紅色に染まった顔をほころばせて。望美が手に握り込ませるようにして、何かを
差し出してきた。

 固い石の感触に、そっと手を開く。手の平に、灰色をした愛らしい小さな地蔵が、
慈愛に満ちた笑みを浮かべてちょこんと鎮座している。

 「地蔵菩薩の守り石か。もう八葉でない私が御仏の加護を賜るなど、許されるのだろうか」

 すると望美は、しっとりと微笑んで応えた。

 「私が祈りを込めた、特別なお地蔵様だから問題なしです」

 ――そうか、得心した。この守り石が持つ清らかな気は、望美が捧げる祈りと同じ。
だからこそ温もりを宿し、私を拒まずにいてくれる。

 地蔵を袿の懐中にしまうと、望美が首筋に顔を埋めてきた。

 「ずっと……敦盛さんが私と一緒にいてくれる時が、幸せに満たされていますようにって
祈ったの」

 「あなたの加護は、私だけの救いだ。大切にする」

 望美に見上げられた拍子に、翠玉の瞳と視線が絡み合う。

 「言ってましたよね。ここに来て幼い頃の自分にもう独りじゃないって伝えたいって。
想い出の中の小さな敦盛さんも、今ここにいる敦盛さんも、笑っていて欲しいな」

 頬に押し当てられた両手に促されるように、唇を重ねた。

 ――望美と祝言を挙げてよかった。幼い頃以上の幸せをくれる、愛しい人。

 

 やがて、スズがねこじゃらしと獲物を携えて喜び勇んだ足取りでこちらに戻って来た。

 「スズ、お帰りなさい」

 望美の出迎えに、彼は得意げな表情で敦盛の方へ顔を向けて何かを寄越してくる。
それは、華やかな二房の白い藤の花だった。

 「私と望美への贈り物なのか。ありがとう、スズ」

 ねぎらうように喉をさすってやると、スズは嬉しそうに目を細めた。

 二房の白藤。一房は望美がくれた地蔵と共に大切に懐へ。

 もう一房を先刻望美の髪に挿した、つつじの反対側に飾りたくて。絹糸を思わせる髪に
愛しむように指を滑らせ、左耳の上に白藤を差し入れる。

 「とても……美しい」

 唇に口付けを落とし、温もりに受け入れられたのを感じた時。揺れる水面に映る
我が身も、また微笑っていた。


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