「悪戯と追憶と」

 

 それは、ハロウィンの前夜の事だった。

 自室のベッドのサイドテーブルの上に置かれた、南瓜を模した缶。橙色をした愛らしい意匠で、
黒猫の小さな飾りが乗せられたそれには、チナミが初めて見る英文が記されている。

 無意識に、チナミは視線を走らせていた。

 “トリックオアトリート”

 ――「トリック」は策で、「トリート」はもてなす、だな。

 策を弄するかもてなすか。敵に対する処遇か。馳走するのも策の内という事なのか?

 そこで思考が止まった。平和になったゆきの世界で敵への謀り事を巡らせてどうする。

 「ゆき、「トリックオアトリート」と尋ねる意図を教えてくれ。まさか、丸焼きになった鳥は
関わって来ないだろうが」

 「チナミくん、鳥さんは関係ないよ」

 くすくすと突っ込みを入れて笑うゆき。

 「べ、別にわざとおどけたわけではない! だが、お前が笑ってくれたなら良かった」

 もぞもぞと呟いた言葉の余韻の後に、妙に気恥ずかしさで顔が熱くなって来る。

 「「トリックオアトリート」は、お菓子をくれないと悪戯しちゃうぞって意味。明日は
ハロウィンのお祭りだからね。その合言葉だよ」

 「ハロウィン……なるほど、南瓜を奉ずる祭か」

 自信たっぷりに言い放つと、なぜかゆきががっくりと肩を落として脱力していた。

 「えっと、南瓜は加工して提灯にするから拝まなくて良いんだけどね。日本では、皆でお菓子を
分けっこするお祭りだよ。この世界では もう怨霊は出ないけど、悪い幽霊を追い払う――」

 ふと口をつぐんでうつむいたゆきの横顔は、どこか哀しげだった。

 「どうした?」

 「ごめんね。ちょっとマコトさんやチナミくんの仲間を浄化した時の事を思い出したの。
あの人達は陽炎にされたけど、悪くなんかなくてむしろ苦しんでたのに」

 ――全く、こいつは優し過ぎる。

 右手でゆっくりと、桜色の髪を撫でてやる。

 「馬鹿。お前が兄上や同志達を浄化した事を気に病む道理はない。オレはもう、
ゆきのおかげで過去の傷を乗り越えられたから心配するな」

 にっと笑ってドアを開けた後、ゆきを部屋の外へ促した。

 「兄上も同志達も祭は好きだったから、きっと喜んでいると思う。明日は
ハロウィンの宴の準備をするから、早く寝ろ」

 「うん、お休み。チナミくん」

 安心しきった、ゆきの幼子のように無垢な微笑み。添い遂げる事が叶ったら、
ずっと抱き締めていたい。

 

 翌朝。

 「なあゆき、オレの部屋にあった菓子の缶を知らないか? オレ達が昨日
見た、南瓜の形に黒猫の飾りが乗ったやつだ」

 朝食後、リビングでアップルティーを飲んでいたゆきが、カップを片手に
きょとんと首を傾げた。

 「うん、知らないよ。夕べはチナミくんとハロウィンのお話をした後すぐ寝たから、
その後は触ってない。あ……でもそういえば」

 カップをソーサーの上に置いて、ゆきは整った眉を訝しげに寄せた。

 「私も朝起きたら、飴を入れておいた硝子の小瓶がなくなってたなあ。ちゃんと
戸締まりしたはずなのに、何でだろ」

 「そうか……不可思議な怪異だな。オレはともかくとして、お前の部屋から物を
持ち出すなど」

 対面のソファに座りながら、チナミは思考を巡らせていた。

 元服したもののふたる者、祝言を上げる前の女子の部屋に無断で立ち入る事は
しない。ましてや祭で食べる菓子をつまみ食いするなどあるものか。

 自分の部屋も鍵が掛かったままだったから、誰かが人為的に出入りした形跡もない。
かと言って二人共持っていないのだから、件の菓子は文字通り忽然と姿を消したというわけだ。

 「よし。藤田彦五郎の名に賭けて、この怪異を解いてみるか」

 ゆきとハロウィンの宴があるのに、放っておく事もしゃくだ。

 すっと立ち上がると、控えめな拍手が降って来た。

 「あまり持ち上げるな。腑に落ちないままなのが嫌なだけだ」

 朱に染まった顔をゆきから開け放たれた二階の窓へと逸らした、その時だった。

 

 突如として、烈風を思わせる強風がリビング一帯に吹き荒れた。

 死者の呻きにも似た風音。目を見開いたまま硬直したように動けずにいる
ゆきの眼前に立ち、烈風を背で受け止める。

 「ゆき、大丈夫だ。オレにつかまっていろ」

 「うん」

 しがみつくようにチナミの背を抱えて、ゆきがこくりと頷く。

 やがて風が鎮まった後、チナミはゆっくりと部屋の中を見渡した。

 不可解な現象だった。あれだけ風が荒れ狂ったのに、調度品が倒されたような
痕跡は散見されない。

 と、一階側の窓辺に程近い空間が蜃気楼のように揺らいだ。シャンデリアの真下で
こちらへ背を向けて佇む青年の透き通った後ろ姿に、チナミは目を奪われていた。

 長髪を一つに結わえ、薄紫色を基調とした陣羽織をまとう凛としたその姿は。

 「兄上……」

 ――なぜこちらにいらしたのですか。まだオレに、伝えたい願いが?

 淡い朱色の瞳を向けて、優しげに目を細めたマコトの姿は、溶けるようにして
消えていた。

 「チナミくん。さっき風が吹いた時、私にもマコトさんが見えたの。浄化された
怨霊や陽炎は、留まらずに龍脈を巡るって前に白龍から聞いた事があるけど、どうして……」

 自分の背に絡められたままの細い両腕は、痛い程に震えていた。幼子をあやすように、
柔らかく背中を撫ぜる。

 「兄上は、オレ達に伝えるべき事があったのだろう。ついて来てくれるか? オレは、
真実を知りたい」

 

 今、風の流れは真南に在る。

 ゆきを伴ったチナミの足は、自然と公園に向けられていた。マコトと同じ五行の
火に象徴される、風向きを追うようにして。

 「兄上、そこにおられるのはわかっています。許されるならほんの少しだけ、
姿を見せて下さいませんか」

 かつて秋吉台で陽炎になった兄と対峙した時のような、張り詰めた空気はない。

 もっと遠い過去――マコトの本当の命があった頃を懐かしむように。穏やかな口調で、
尖った屋根のある東屋に向かって語り掛けていた。

 『ふふ。お前に見つかってしまうとは、私も修練が足りないな』

 風音に掻き消えてしまいそうな、小さな微笑い声。

 チナミは意識を集中させて、目を凝らす。姿こそ儚げに透けていたけれど、昔と
変わらぬ兄がそこにいた。

 温かい感情が、胸の奥に込み上げて来る。気付いた時には、泣き笑いに似た
表情が浮かんでいた。

 『全く。男子たる者が泣いてどうすると、いつも言っているだろう』

 「申し訳、ありません……。ただオレは、兄上がオレ達に逢いにいらっしゃった理由が
知りたかっただけです。浄化された後もなお、伝えたい事があるのですか」

 マコトは手を伸ばしてチナミの目に浮かんだ涙を拭うと、ゆっくりと首を横に振った。

 『いいや。私から告げる願いはもう何も残っていない。強いて言うなら
「ゆきさんと幸せに添い遂げなさい」だが、いずれ果たされる事だからな。
チナミとゆきさんの所へ来たのは、少し悪戯な心が芽生えてしまったからなんだ』

 苦笑めいて笑うマコトに、ゆきがおずおずと尋ねる。

 「悪戯、ですか?」

 『あなたとチナミが「はろうぃん」について楽しげに話しているのを見守る内に、
昔チナミや同志達と出掛けた祭が懐かしくなりましてね。私もはろうぃんに参じたいと
思った故なのですが……ゆきさん達が祭で食べる菓子を持ち出したのは、意地が
悪かったようです。ご迷惑をお掛けしました』

 深々と頭を下げる兄に、思わず笑い声がこぼれてしまう。

 「兄上。心中はお察ししますが、先走り過ぎです。悪戯をするのは、ハロウィンで菓子が
もらえなかった時でしょう」

 『そうだな、悪かった。水戸の祭の時、団子を分けてくれとお前がせがんだ事を
思い出していたよ』

 「ゆきが聞いています。どうかそれ以上はお止め下さい」

 赤くなったまま突っ込みを入れる声に、心なしか力が入らないのは気のせいだろうか。

 『ああ。もう勘弁しておいてやる。さあ、早く菓子を持って帰りなさい。浄化された今では、
長くこの姿は保てないのだから』

 次第にマコトの姿が希薄になってゆき――やがて風が通り過ぎた後には、兄がそこに
存在した証を示すように、南瓜を模して黒猫の飾りが付いた菓子缶と、淡い桜色をした、
中に飴が沢山入った硝子の小瓶が残されていて。

 チナミは何も言わずそれを拾い上げ、深く息をつく。

 「帰るぞ。宴の準備がまだだったからな」

 「マコトさんの事は、もう大丈夫なのかな……?」

 背中から掛かるゆきの声は、心配と確認が交ざった問いだった。

 振り返って、誇らしげな笑みを見せてやる。

 「言ったろ。オレと兄上の事はもう心配するな。兄上は永くこの世に留まって触れ合えなくても、
きっとどこかでオレ達をずっと見守っていて下さる」

 ――オレは、そう信じております。

 チナミは彼方の晴れ渡った空を、ただ見つめていた。

 

 その夜。マコトから返された菓子をテーブルに並べ、南瓜や幽霊を模したぬいぐるみを
飾った後に。

 蓮水家のリビングで、チナミはゆきと無言で向き合ったままソファに座っていた。もう
五分も均衡を保ったままの光景は、どこかにらめっこにも見える。

 ――まだかゆき。焦らさないで早く言ってくれ!

 待つべきものは、件のハロウィンの合言葉。ゆきが焼いたパンプキンパイが出来るまでの間、
自分から菓子をあげたいと妙な意地を張った結果がこれだ。

 「ゆき……相手を焦らして機をうかがうとは、小松殿に似て来たな」

 「何の事?」

 とびきりの愛らしい笑顔で反撃されては、もう投降せざるを得ない。

 「ええい、昨日オレに教えた言葉をもう忘れたのか!」

 「ふふ、ちゃんとわかってるから怒らないで。トリックオアトリート」

 微笑みを絶やさないゆきに、声を荒げたのを恥じる自分がいた。悪意のない無垢な笑顔は、
どんな悪戯よりも強力なのかもしれない。

 「ハ、ハッピーハロウィン……。べ、別に怒ったわけじゃないから誤解するな」

 頬を赤らめたままぼそぼそと呟き、白い手に菓子を握らせてやる。

 猫を模った、小さなバタークッキー。目の前にある菓子缶から一つ拝借して、手の中に 
忍ばせていた物だ。

 時を同じくして、オーブンから小気味良い電子音が鳴り響いた。

 「あ、パイが焼けたみたいだね。食べようか」

 「ああ」

 

 『チナミ。いずれ奥方になる人から菓子を頂くなら、今度は侍としてもう少し奥ゆかしく
お願いしなさい』

 静寂の中で密やかに紡がれた言の葉が、そっと庭に沁みて行った。


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