「忘れ咲きの桜――熊野詣にて――」

 

 御浜の海岸から一町程離れた、小高い丘の頂上。

 敦盛は望美と共に、眼前に佇立する桜の大樹をただ見上げていた。

 ――神無月だと言うのに、春を忘れたように咲く桜。現世の理から外れた私と
似ているのだろうか。

 「冬桜だってこんなに早く咲かないし……不思議だね、スズ」

 虎猫のスズが望美が手に提げていた籠からひょっこりと顔を出し、興味深そうに辺りを見渡した。

 龍脈の乱れは、望美によってすでに正されている。スズに警戒した様子が見られない
事に、ひとまず敦盛は安堵した。

 「私が未だ存在しているから、この桜が穢れたのではなくてよかった」

 桜は黙して応えない。微笑んで頷くかのように、潮風の中さざめき揺れていて。

 「朔みたいに正確に感じ取れるわけじゃないけど、この樹から痛みや嘆きが
伝わって来ないのは私にも判ります。それにね――」

 ちょっと待っててね、と呟いて望美がスズの入った籠を地面に置く。

 「敦盛さんが帰って来てくれて嬉しいって、言ってるような気がします」

 樹の幹に白い手を当てて微笑った望美の姿は、薄紅色の花霞に儚く溶け込みそうな
程に美しかった。つややかな髪が、天の羽衣であるかのようにふわりとなびく。

 ――あさましいだろうか。この風が鎮まった後も、清らかな望美を繋ぎ留めていたいと願うなど。

 すっと手を伸ばし、雪のように白い手に自分のそれを重ねる。透き通った手の甲から脈打つように
伝わる鼓動は、温かかった。

 「ああ……。穢れた身の私を受け入れてくれた熊野の清浄な気は、あなたに似ている。
望美と共に来られたのはよかった」

 額に口付けを落としてささやく。胸の奥に去来する、懐かしい感情。熊野にいた幼い頃が
思い出されるからだろうか。

 ――むしろ黒龍の逆鱗を割った時と同じなのだろう。愛しい望美の元へ、帰りたいと焦がれた想いだ。

 唇で瞼の上に微熱を運ぶと、望美が頬を上気させてこちらを見つめてくる。

 「ん……敦盛、さん」

 「私の在るべき場所が望美で、私は幸せだ。不思議だな……幼かったあの日は、とうに失くしたと
思っていたのに。心の内で声を上げて泣いていた私を、あなたが見つけてくれたからなのだろう。
愛し過ぎる程に、この想いは尊い」

 そっと息を吸い込んで、唇を離した後――居場所に帰れた幼子のような、泣きたくなる程の
安堵感に涙が頬を伝って流れ落ちていた。

 「うん。でも私達はもう離れたりしないんだから、泣かないで」

 涙に小さく、温かな唇が触れてくる。望美が桜に添えたままの指を、敦盛は自分の指で
優しく撫ぜた。

 どれだけの間、潮騒の奏でに身を委ねていただろうか。

 

 『天の玄武、白龍の神子。龍神から与えられた任を終えたとて、あなた達が交わった気は
春のように暖かいのですね』

 柔らかく澄んだ女性の声が、ざわりと大気を震わせて聴こえてきた。おそらくは、この樹に
宿る木霊。

 「ねえ、今咲いちゃっても春にまた同じように咲けるのかな」

 『大丈夫。私は、春を忘れません』

 案じる望美に笑むかのように。淡雪が降る光景を想起させ、薄紅色の花弁が幾重にも
舞い落ちた。

 「夢みたいに、綺麗ですね」

 陶然と呟く望美の傍らでは、虎猫のスズが前足で花弁を捕まえようと跳躍する姿。

 「そうだな。だかこれは現だ。私も望美も、ここにいるのだから」

 匂うような甘やかな薫りが降る花吹雪の中、温もりを確かめたくて。敦盛は桜色の唇に、
自分の唇を重ねた。


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