「少年の素顔」

 

 熊野本宮。本殿脇にしつらえられた、檜製の物見やぐらで。

 「野郎共、用意は出来てるな?」

 熊野別当――藤原湛増ことヒノエの、勇ましい声が響き渡った。

 「へい、準備万端でさ」

 額に白い鉢巻を巻いた中年の水軍夫が威勢よい声で告げる。ヒノエの後ろに控えるは、
いずれも肉体を鉄の如く鍛え上げた精鋭達だ。

 「それじゃ、皆お願いね。程々の手加減と、笑顔を忘れない事」

 「がってんで!」

 望美が水軍衆に片目をつむって応える。こちらを向いた彼女と頷き合ったのが、
その合図だった。

 「よし、やれ」

 神域に獣の如く響き渡る、男達の咆哮。眼下の境内で待つ熊野の民に向けて、
惜しみなく籠から餅が投げ渡されてゆく。本宮で毎年年初めに催される、新年を
寿ぐ餅撒きだ。

 「さあもっと近くにおいで。オレの奥方様」

 歓声がさざ波のように神域を震わせる中。望美の肩を抱き寄せてささやきかけた。

 「ちょっと待ってヒノエくん。これじゃお餅が持てない」

 頬を赤らめた望美の熱が、耳元にまで伝わってくる。肩が触れ合った体勢のまま、
手の甲に自分の手を重ねた。

 「これが望美の世界で言う「愛の共同作業」ってヤツだろ?」

 「ふふっ、正解」

 おどけたように微笑いながら、望美はゆっくりとした動きで足元の籠に入った餅を
投げてゆく。その手を支えながら、ヒノエは誰にも悟られぬよう胸の内で呟いた。

 ――なあ望美。熊野の門出になる年に、こんなにも多くの笑顔に見守られてる。
わかるかい? 世界の誰よりも、オレ達は幸せだって事。

 

 その夜。本宮大社の座敷にて。

 「皆、お疲れ様」

 宴の席に、望美の凛と澄み切った声が響いた。

 「奥方様と頭領のおかげで、みんな喜んでやしたぜ」

 「逆にこっちが熱くなるような餅運び! いやーあっしもいつか、かかあとあんな風に……」

 酒が入り熱気を帯び始めた水軍衆を遮るようにして、ヒノエは手を打ち鳴らした。

 「ほら、そこまでにしとけ」

 上座に座る副頭領に目配せし、ゆっくりと立ち上がる。

 「さ、夕げを食べ終わったなら行こうか。望美」

 「うん」

 こくりと頷いた望美の手を引き、座敷の外へさらって行った。

 その背を見送った水軍衆の間に流れる、一様に得心したような空気。

 「お二人のお楽しみを邪魔しちゃいけねえなあ……。馬に蹴られる前に、熊野の神の
お叱りを受けちまう」

 「おめえら、わかってきたじゃねえか」

 副頭領は日焼けしたいかつい顔をすがめて、にっと笑ってみせた。

 

 夜も更けた神域の森は、寝静まったような静寂に満ちていた。

 自室に程近い縁側に、ゆったりと腰を下ろす。

 「ヒノエくん。ずいぶんごちそうさまが早かったけど、ご飯はもういいのかな?」

 「奥方は意地悪だね。雑煮と餅の後にさらに飯を食わせようなんて、そんなにオレを
動けなくさせたいのかい」

 ――いや、どのみちオレはもう動けねえな。

 ふっと苦笑をもらし、横座りする望美の膝へそっと倒れ込んだ。

 「……食べた後すぐ寝ると、お行儀悪いよ」

 望美は頬を紅色に染めながらも、膝に埋めた顔を退けようとはしなかった。

 「悪かった。なあ望美。野郎共にも親父にも言わなかったけど、オレは今が懐かしいんだ」

 「どうして?」

 ふっと少年に返ったように笑みをこぼすと、優しい指が髪に伸びてくる。

 「オレが熊野別当を親父から継ぐ前は、親父がお袋や野郎共と一緒に、昼間みたいに餅を
皆に振舞っててさ。ガキの頃からずっと側で見てたんだ。あの頃に返って甘える事を
許してくれるかな」

 答えは返ってこない。ただ、幼子をあやす時のような慈しみに満ちた手に、柔らかく
髪を撫でられる。

 望美に母の面影を重ね、天女の羽衣を奪い――後悔はしていない。けれど、少しだけ
胸が苦しかった。

 「ふふっ。天人を連れ去った海賊はとっくに罪だらけだ。このままお前の膝で眠ったら、
いつか罰を受けるなオレは」

 ぽつりと呟いた後に与えられた罰――白い指に、狙い澄ましたように頬をつねられた。

 「いてて」

 「人が許してるのに勝手に罰を作るような子には、お仕置きだよ。早く寝なさい」

 ――まいったね、オレの負けだ。

 悪戯っぽいようでいて、子守唄のように心地よい声が耳に沁みてゆく。観念したように
口元を緩めながら、柔らかな膝を枕に目を閉じた。


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