「祈りより生まれし標」

 

 ――父上、兄上。愛する人に救われた今、私は黄泉の国から現世に引き戻して頂いて
よかったと、そう思っております。

 

 清澄な月明かりが照らす、庵の屋根の上。敦盛が望美の唇に口付けた時にこぼれた
言の葉は――祈りとなり、龍脈のどこかでそれを待っていた者の魂を震わせた。

 その刹那吹き抜けた、柔らかな微風に誘われ舞う一羽の紅き蝶。

 『ああ、生まれた日にあの子がそう言ってくれるならば……』

 蝶の密やかな囁きは風に融けるかのようにして消え、やがて蝶は何処かヘ飛び去った。

 

 それは、敦盛の誕生日から一月経った日の事だった。

 「敦盛さん、スズを見ませんでしたか?」

 「望美が湯殿へ行った後、庭へふらりと出て行ったのだが……少し戻るのが遅いな」

 「心配ですね。様子を見て来ましょうか」

 望美に無言で首肯し、白単の上に薄緑色の袴をはいて立ち上がる。その時、甲高く 
寂しげな猫の鳴き声が木霊した。

 ――ああ、スズの声だ。だがスズとは別に、私を呼ぶ者の気配がする。

 先の戦で幾度となく感じた、怨霊の嘆きや哀しみとは違う。逆に懐かしさすら覚える、この感覚は。

 「敦盛さん、どうしたの?」

 薄紅色の地をした、沙羅双樹があしらわれた衣を身に着けた望美がきょとんとした風に首を傾げる。

 「すまない、私は大丈夫だ。スズを探そう」

 たとえもう八葉の力が失われたとて、この穢れた身を呼ぶ魂には応えねばなるまい。

 

 夜の帳が下りた庭を、清澄な月明かりを標にゆっくりと進んでゆく。

 やがて中程にある池にさしかかった時、池のほとりでこちらに背を向けて佇む、茶色と白が
交じった毛をした虎猫の姿が視界に映った。

 “来たか”

 そう言いたげに、スズが濃緑色の目を針のように細めた。

 「もう、どこ行ってたの? さ、お部屋に帰ろ」

 「待ってくれ、望美」

 スズに駆け寄った望美を敦盛は手で制した。

 「おそらくスズは私達を呼んでいたのだろう。この者が、私達に用があると」

 スズの眼前。月明かりに照らされ舞う一羽の紅い蝶を見つめる。

 

 『そうだよ。よく気付いてくれたね、敦盛』

 

 低く柔和な男の声で囁くその声は、けして風の悪戯などではない。そう一門の子として
生きていた時の記憶が告げていた。

 微風に吹かれ、蝶が放つ紅玉の輝きを想起させる鱗粉が月夜に舞い上がる。儚げな光は、
壮年の公達の姿を朧気に浮かび上がらせた。

 黒い烏帽子に仕立てのよい薄墨色の直衣を身にまとった姿。兄経正に似た柔和な佇まいと、
叔父忠度の面差しをわずかに残している。

 「大きくなったね、敦盛。この父は、お前を現世に還してよかったと、胸を張れる」

 どこか哀しげなようでいても、ふわりと優しい眼差しをこちらに向けたのは、敦盛を死反した
父経盛だった。

 「ちち、うえ……」

 自分を呼んでいるような懐かしい気配は、一門の魂という予感はしていた。なのに、喉の奥が
乾いてそれ以上言葉が出ない。

 「あなたが、経盛さんですね」

 「ええ。初めまして、神子殿。あなたが敦盛の奥方ならば、私や経正も安心できます。この子を
理の外から救って下さって、本当にありがとうございます」

 望美の凛とした眼差しを受け止め、経盛は微笑んだ。

 「なぜ父上が、現世に」

 微かに震える唇で、かろうじて言葉を紡ぐ。

 「生まれた日に、お前は私達に伝えてくれただろう。“黄泉の国から現世に引き戻されてよかった”と。
その祈りが龍脈へ届いたから、私はようやっと重い腰を上げられたのだ。やはり私は我が息子と、
己が罪とに向き合わねばならない。ならばこそ、お前に伝える事がある」

 ふと、経盛は憂いを帯びた瞳をそっと伏せた。

 「この父の我がままで、敦盛と経正に重過ぎる枷を背負わせてしまった事を、ずっと償いたかった。
先の戦でお前に討たれるべきは、誰よりも私であったというのにな」

 「父上……」

 ややあって、経盛はゆっくりと顔を上げた。

 「だがそれ以上に、愛する家族を取り戻したいと願う己の心に悔いがなかったのも、また事実なのだ。
だから私は、怨霊にはなれなかったのだろう。今なおお前を大切に想う気持ちを伝えたい。やはり
この父は、どこまでも身勝手だな」

 苦笑を浮かべる父の表情は、まるで吹っ切れたかのように見えた。

 「父上のお心は、十分に届いております。どうか、ご自身を責めるのはもうお止め下さい」

 もし父の手で怨霊として蘇らなければ。あるいは、彼岸へ送り還されていたならば――自分は
望美と出逢う事すら叶わなかったから。

 「ああ。ありがとう、敦盛。スズ、敦盛の側にいてやれ」

 父の大きく温かい手が、幼い頃のように敦盛の頭を優しく撫でる。その時、スズが
頷くかのように鳴いた。

 「お前は生まれて来て、蘇ってよかった。私の愛しい、大切な息子」

 経盛は腰に差していた蘇芳色の扇をさっと開き、緩やかな動きで舞い始めた。

 鋭い太刀を想起させる中に、とめどなく流れる清水のような流麗さを秘めた舞。父の
表情は、限りなく誇りに満ちていた。

 やがて舞が終わり、経盛が静かに目を閉じる。徐々に父の姿が、宵闇に融けそうな程に
希薄になっていた。

 「父上!」

 「またお前に逢いたい。神子殿、どうか敦盛を頼みます」

 紅玉の輝きを想起させる鱗粉が消失した時には、父の姿は消えていた。

 

 『二人共、どうか幸せに』

 凪いだ風に、父の落ち着いた沈香の残り香が微かに薫っていた。

 

 遠い、遠い夜空の彼方へと飛び去って行った紅い蝶を見送った後――目を伏せた敦盛の
瞳から、一筋の小さな雫が流れ落ちていた。

 「父上が私を黄泉の国から現世へ引き戻して下さった事は、ご自身の命を削ったはずだ。
だが父上はそれを一言たりとも仰らなかった。私を責めるどころか、この穢れた身を
いとおしいと……」

 大切なあの日を壊した咎は消えはしないと知っている。なのに自分は妻だけでなく、父や
兄にまで許されているのか。

 喉の奥に残る苦い熱を感じた時には、望美の優しい温もりに抱き締められていた。

 「うん、だからこそ、経盛さんが敦盛さんを蘇らせた事を、命を傷付けてしまったと
思わないで。敦盛さんが側にいてくれてよかったの。それは変わらない。これからもずっと」

 「ああ」

 鈴を鳴らしたような望美の声が、透き通った夜に沁みてゆく。愛しい言の葉に、口付けで
応えるのがやっとだった。

 

 経盛が還った後、敦盛は望美とスズを伴って部屋の褥に戻っていた。自分達を導いた
スズは、早々と籠の上で腹を仰向けにして伸びをしたまま寝てしまっている。

 白単に着替えて、自分の隣で横になる望美の柔らかな頬をゆっくりと撫ぜる。望美が
子猫のように目を細めた。

 「もう、くすぐったいです」

 「すまない」

 からかうようで、それでいて優しい声音。望美が敦盛の首筋に甘えるようにして顔を
押し当てくる。ほどいた髪に触れる唇の感触は、直接口付けられたかのように胸が疼いた。

 ――望美も、私が生まれ蘇った事を寿いでくれた。

 “経盛さんが敦盛さんを蘇らせた事を、命を傷付けてしまったと思わないで”

 先刻望美が告げた言葉が、まだ鐘を鳴らしたように胸の奥で響いている。

 この身は数え切れぬ程に人を傷付け、数え切れぬ程に救いを求めた。苦しき穢れた存在
なれど、同じだけ大切な者達に肯定されているのなら、何といとおしい事だろうか。

 「父上は、かけがえのないものを私に下さった。こうしてあなたの命を感じられる幸せを」

 「うん」

 胸に顔を埋める望美の高鳴る心音が、自分のそれと融和する――そう心の蔵に強く強く
伝わってきた。

 「私は、もう二度と失いたくない。どうか今宵だけでなく永遠に、側にいてくれ」

 望美が一度きり頷いてくれた、それだけで十分だった。


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