「泡沫の身、めぐり逢うまで」

 

 夕陽が、空を茜色に染めていた。

 その眩い光を映して煌めく海に浮かぶ、壮麗な寝殿造の厳島神社。朱塗りの高棚で囲われた舞台の
中央に、望美は立っていた。

 海からの風が、頬を撫でて通り過ぎてゆく。

 「敦盛さん……」

 この場所で敦盛を待ち続けてから、どれほど経っただろう。穢れの竜巻へ彼が一人で消えて行った時、
最後に自分に向けた微笑みが頭から離れない。

 数多の怨霊を吸い寄せる核となる黒龍の逆鱗が割れても、敦盛は舞台にはいなかった。

 御笠浜の海岸。厳島神社の廻廊。いくら歩いても果てがない程の距離を歩き、敦盛を捜した。戦いの
疲れで、足が鉛のように重くても。

 どこにも彼の姿はなかった。それでも望美は、舞台の上で敦盛を待っている。

 「帰って来るよね、きっと……」

 自分に言い聞かせるように呟く。そう信じたいからこそ、ここで待つと決めたのだから。

 以前敦盛と共に買った小さな土鈴の片方を、望美はスカートのポケットから取り出した。

 澄んだ音色も、夕暮れの静けさの中では寂しげな響きを伴って聞こえる。

 願いを叶えるという小さな土鈴。あの時に願ったのは――

 

 “怨霊になる前以上にずっと、敦盛さんに幸せになって欲しい”

 

 祈るように鈴を握りしめる。もう片方を持つ彼に、自分の願いが伝わるように。

 「消えたら、幸せになれませんよ?」

 

 眩く白い光に満ちた空間。蛍火のような光が生まれては奔流となって流れてゆく。冷たい虚無に似て
いても、春の陽射しのような暖かさがあった。

 水に浮かんでいるかの如き心地よさに、敦盛は漂い目を閉じたままその身を委ねていた。自分を
戒める鎖の重みも感じない。

 『敦盛……』

 頭に響く柔らかく落ち着いた声に、敦盛は静かに目を開けた。懐かしく、聞き覚えがある声音。

 『よくやったね、敦盛。この兄は、お前なら出来ると信じていた』

 「あに……うえ……?」

 かすかな呟きが唇から漏れる。なぜ、浄化された兄上の声が聞こえるのだろう。これは、罪の
意識が見せる幻か。

 思考をめぐらせるうちに、赤間関で白龍が言っていた事を思い出す。浄化された怨霊は、生じと
滅びを繰り返し、龍脈をめぐり続けるのだと。

 水が流れるように、自分の周りを通り抜ける光の粒にも見覚えがあった。望美が怨霊との戦いで
幾度となく見せた、浄化の光。

 記憶の糸をゆっくりと手繰り寄せる。

 怨嗟の声が響く穢れの中。

 力を振り絞って黒龍の逆鱗を割った時、自分が消えるのを感じた。

 消えたくなかった。浅ましい願いだとわかっていても、まだ望美に伝えたい事があったから。

 そう願っていたゆえに、龍脈に在っても姿と記憶を失わずにいられたのだろう。

 

 “幸せになれない人なんていませんよ。何であっても、ね?”

 “私、怨霊で穢れてたとしても、敦盛さんの事大好きです”

 望美の温かな言葉、優しい笑顔の一つ一つが鮮明に蘇る。

 許されないと思っていた。怨霊の身、いつかは儚く消える身が、誰かを好きになるなど。

 

 “敦盛さんが怨霊として蘇ってなかったら、逢う事も出来なかった。それだけでも意味があると
思います。だから、消えたいなんて言わないで下さい”

 

 心を戒めていた鎖が、音を立ててほどけていった。

 本当は側にいたかった。望美は浄化の力を振るわなくても、在るがままを認めてくれたから。

 だがここに、望美はいない。遠すぎて、触れる事さえも出来ない。

 「神子……」

 揺れる瞳から、小さな雫がこぼれ落ちた。溢れる涙が目の淵を伝い、光の粒に溶けてゆく。

 ただ一言だけでも、想いを告げればよかった。

 龍脈を漂ったまま、敦盛は涙を流し続けた。

 

  ――鈴よりも大切なものを、失くしてしまったらどうする?

 幼い頃、兄が問うた言葉。あの時も、兄と戦った後も、そして、今もそうだ。

 わからない。ただ、泣く事しか出来ないのか。

 

 『困ったね。お前はずっと、そうしているつもりかい?』

 それまで沈黙していた兄の声が、静かに尋ねた。幼い頃と同じように。

 「もう神子には、逢えないのですか」

 『それは、お前が決める事だよ』

 思いもよらない言葉だった。戸惑う敦盛に、兄の声は語り掛けた。

 『お前だけは、まだ浄化されずにそのままでいる。どうするかは自分で決めなさい、敦盛』

 示された道は二つ。このまま龍脈に還り、めぐり続けるか、それとも現世に帰り、留まるか。

 「私は……」

 もし、許されるなら――

 

 「消えたら、幸せになれませんよ?」

 その声は、遠くからこだました。雨が水面に波紋を作るように、優しい響きを伴って空間を揺らす。

 「だから、早く帰って来て下さい。ずっと、待ってますから」

 

 「兄上、私は……神子の元へ帰ります」

 目の端に小さな雫を浮かべたまま、凛とした声で敦盛は告げた。

 『ならば、行っておいで。敦盛、お前はよい想い人を持ったね』

 姿は見えない。けれど昔と変わらず、微笑んでいるかのように嬉しそうだった。

 『もう、大切なものを失くしてはいけないよ』

 その言葉を最後に、兄の声は沈黙した。

 失くしたくないからこそ、伝えたい。この身が消えても、消えない想いを。

 涙を拭い、ゆっくりと身を起こす。

 

 「敦盛さん……」

 自分を導くかのように、声が再びこだました。それに重なり、二人で買った鈴の音が響く。

 その方向へと、敦盛は手を伸ばした。

 「神子……」

 蘇った時のような、痛みや苦しみはなかった。ただ一つだけを願っていたから。

 逢いたい、と――

 

 眩い光が消えた後、敦盛は厳島神社の廻廊に立っていた。

 茜色の空。夕陽が西へと傾き始めている。視界の端に、舞台が小さく見えた。

 その中央でこちらに背を向けて立つ、望美の姿も。

 「神子、返事をしてくれ。神子!」

 龍脈で呼んでくれた望美に届くように、声を限りに叫んだ。そしてゆっくりと、舞台に向かって
歩き出した。

 

 自分を呼ぶ声に、望美は弾かれたように振り返っていた。

 そして近づいて来る人影を、まばたきもせずに見つめていた。

 結っていた髪がほどけた、腰まである薄紫色の髪に、赤朽葉の衣。身に付けた鎖まで、寸分の違いもない。

 それは、ずっと待っていた敦盛の姿だった。

 夕暮れに、彼が持つもう片方の鈴の音が響く。

 「敦盛、さん?」

 舞台に上がって来た彼の方へと一歩ずつ歩みを進めた、その時だった。

 かくんと足がもつれ、望美の身体が傾いだ。両手を付こうとする前に。

 「神子っ!」

 彼は、その身体をしっかりと抱き止めていた。

 幻ではない腕に支えられながら、望美の唇から安堵の声が漏れていた。

 「ああ……本当に、敦盛さんだ……」

 「神子、すまなかった」

 二人の髪が風に吹かれて舞う。望美の髪を手でそっと押さえながら、敦盛は尋ねた。

 「私は、何一つ変わらずに穢れたままだ。生き人と違って、いつかまた消えるかもしれない。それでも、
よいのか?」

 「変わってないならいいんです。私は怨霊でも、敦盛さんの事が――」

 望美が言い終わる前に、敦盛はそっと唇を重ねていた。

 それは、ほんの一瞬だった。唇を遠ざける敦盛。

 「すまない、神子。もう何も言わなくていい。私は、あなたの優しさにずっと支えられてきた。
だから私も、あなたが好きだ。失いたく、ない」

 「はい……」

 望美は頷くと、微笑むように目を閉じた。

 安らかな呼吸の音が聞こえる。張りつめていた心の糸が切れたのか。

 壊れ物を扱うように望美の身体を横抱きにして、敦盛はゆっくりと舞台から降り歩き出した。


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