「刻まれた記憶」


 三月十四日。

 窓から射す十六夜の月明かりが、望美の部屋の前で佇む敦盛を照らしていた。

 敦盛はそっと、手のひらに忍ばせたコサージュを握り締めた。

 勿忘草の花を模した青い絹製。こちらの世界に来てから、勿忘草の花言葉は聞いた事があった。

 「“私を忘れないで”か」

 胸の奥が、針で刺されたように痛む。口にした言葉が、自分の願いそのものだったから。

 人ならぬこの身は、愛する人に忘れられれば存在理由を無くし消え去ると、とうに気づいていた。

 ――忘れられたくないんだ、望美にだけは。

 哀しげに瞳を揺らし、勿忘草のコサージュに口付けを落とす敦盛。
コサージュをポケットにしまい、望美の部屋のドアを静かに開けた。

 薄桃色の寝巻姿でベッドに横たわっていた望美の枕元へ歩み寄る。

 「敦盛さん、来てくれたんだ」

 ゆっくりと望美が身を起こし、花がほころぶように微笑んだ。

 「無理に起きなくていい。望美の身体に障る」

 いとおしむように、絹糸を思わせる望美の髪を撫でる。
と、微熱の残る顔でくすぐったそうに望美が首を横に振った。

 「大丈夫。風邪、もうすぐ治りそうだから」

 枕元にあった、額の冷却シートを持つ敦盛の手がかすかに震えていた。

 かつて、望美と傷付いた小鳥を手当てした時の事が脳裏をよぎる。
穢れたこの身でも、触れたい想いをとうに抑えきれずにいた。

 ――守りたいんだ。側にいるあなたの命を。

 望美に額の冷却シートを当て、優しく胸の中へ引き寄せる。心地よさそうに望美が目を閉じた。

 蜂蜜を思わせる、つややかな望美の髪の甘い匂い。指で望美の髪を梳ると、
名残惜しそうに敦盛は身体を離した。

 懐から、敦盛が勿忘草のコサージュを望美に差し出す。

 「今日は、想い人に返礼をする日と聞いたから」

 そっと髪に勿忘草のコサージュを挿すと、望美が頬を朱に染めた。

 ベッドに身体を横たえた望美の手を握り、敦盛は言葉を継いだ。

 「望美と紡いだ記憶が愛おしくて、忘れたくないと、願いばかりが募ってしまう」

 「私も、忘れません」

 敦盛の手を握り返して紡がれたその言葉は、大地に水が沁み渡るように、敦盛の心を満たしてゆく。

 互いの手を握り合ったまま、敦盛は唇を重ねた。

 濡れた唇から伝わる熱と、深い吐息。

 望美を満たす為に存在したいと願った己自身も、愛する人の記憶と温もりで満たされている。
何と幸せな事だろうか。

 たどたどしく口付けを返してくる望美の、花の蜜のような甘く柔らかな唇。
敦盛の思考が、ゆるやかにとろけてゆく。

 このまま融けあえてしまえたならば、望美の記憶に己を刻めるだろうか。

 そう敦盛が思った時。望美の閉じた瞳から涙が流れ落ちていた。窓からの十六夜の月明かりに照らされ、
儚げに光る雫。敦盛が優しく唇で触れる。

 ――すまない、苦しかったのだろうか。あなたに、無理をさせてしまった。

 唇を遠ざけた敦盛の手を、望美がぎゅっと強く握り締めてきた。

 「敦盛さん。行かないで……」

 敦盛が頷くのと同時に、望美が目を閉じる。その閉じたまぶたに、敦盛は口付けを落とした。


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